※パラグアイ移住前に必読※~私が来た船はこれだった~1962年に12歳で移民した園田八郎さんの移民秘話
- Kori Aihara
- 2024年11月13日
- 読了時間: 23分
更新日:2024年12月13日
私が来た船はこれだった。

セレモニーって言うと岸壁離す時ね。 日本を惜しんで。 そう、やっぱり港にいっぱい見送ってくるから。 家族もそうだし、家族でない人たちも結構来るんだよ。 友達とか。
なぜイグアスに入植されようと考えたんですか?
俺はまだ子供だったから、俺関係ない。九人兄弟なんだよ。男性が8人、女性が1人。俺が9番目の兄弟。 一番上だと26歳違うんだ。3年ずつ作ってくるとちょうど合うじゃん。そのうちの下から3番目の兄貴が中学生の時に南米に移住するような情報を雑誌で知って、 将来南米に移住したいと思うようになった。
ご家庭というのは農家?
農家、農家。鹿児島県の農家。鹿児島で、もともと種子島って、あの鉄砲を作った。そこの鍛冶奉行。 薩摩藩士だった。西南の役ってあったでしょ。あれを俺のおじいさんが行ってるの。田原坂(たばるざか)で負けて西郷さんは鹿児島の城山へ逃げて死んで、俺のおじいさんのほうは大隅半島に逃げていった。その時おじいさんが西郷さんと一緒に逃げてきていたら俺もいないの。俺が育った場所は鹿児島体育大学があるけど昔は特攻基地だった。そこで特攻隊員が約1,000人死んだんだよね。
俺も美智子さんとか、 当時の皇太子と話もしてるの。その時は私がJAICAに入って2年目だったからね。現地職員で。で、ピラポの現場から手伝いに来たの、ここ(イグアス居住区)に皇太子が来るってことで。
海外移住事業団の事務所?
組織名が変わったの。昔は海外移住事業団というのと、 海外技術協力事業団というのがあって、 2つが合併したの。 それで国際協力事業団(JAICA)になって、 国際協力機構という名前に変えてきて。移住事業がだんだん小さくなってきたからね。
日パ移住協定に調印。
そう、黒田公使ね。当時の公使館は、 ちょうど アスンシオンのセントロの方からマリスカルロペスの通りになったところに近くにあった。
日本人移住を南米とかに進めた一番の理由というのは何なんですか?
それは、移住受入国の事情もあったし、送る日本としての事情があった。後で話してあげる。
移住者は自ら井戸を掘ったんですね。
もちろん。だって水道なんか当然あるわけないもん。日本人が入ってきて初めて人が住むの。
あ、じゃあパラグアイ人より先?
もちろん。パラグアイ人より先。 日本人が入ってきて現場をいじるのに、パラグアイ人たちの手が欲しいから(呼んで)。 当然日本人が学校を先に作っちゃうと先生たちが必要になる。治安を管理するために警察が必要になる。 だから、仕事に来る人や学校の先生、そして警察なんかの家族が一緒に入ってきたのが最初のパラグアイ人居住者たち。
日本とパラグアイの移住協定が結ばれた1959年。 その前にも日本人移住者もあった向こう30年間で85,000人の日本人を受け入れましょうと。
じゃあまだまだ空きはあるってことですね。
だから、永住権取られる背景がそれだから。そして30年間だった協定が今はエンドレスになったわけ。今なおその協定で永住権を取れるという形になっている。
じゃあ日本人はあと7万人くらいは永住権を取るわけですね。
そう、今13,000人だからね。でもいるのは8,000人くらいしかいないけどね。 それぞれの移住によって、 日本人が入ってきた形態が違うから。
ブラジルの花嫁移住ってどういうことなんですか?
ブラジルには単身もいっぱい来ているわけ。 単独で。 パラグアイは逆に言うと単独では来れなかったんだよ。 家族移住か、同伴移住。例えば移住したい人って結構いるじゃない。で独り者には農業って難しいからね。夫婦でもなかなか難しい時代だったわけ。そうすると、単身で来た人と夫婦が構成家族を作って、一つの移住できる単位を作って移住してくる。あくまでもそれは便宜上ね。形式だけの家族。養子みたいな。 それで一つの移住できる資格を作って。ブラジルの場合は、その移住の中に単身農というのがある。それはなぜかというとブラジルの移住の形態が、 コーヒー農園の作り、 雇用農、 そしてもう一つは自営農も同じ。 パラグアイの場合は自営農だけだから経営するためには、ある程度家族がいないと病気になったりとかあるから難しいということと、もう一つは 家族で来るくらいの資金がないと、農業できないから。 パラグアイの要望は移住者は受け入れるけれども、受け入れる人たちは、自営農でパラグアイの農業を開発してほしいと。後はいらないの。
もともとパラグアイの移住の始まりなんだけど、 1880年代という世界でも大きなことがいくつかあって、 まず我々日本人に関係するのは日本の廃藩置県があった。廃藩置県があった明治元年から海外への渡航が解除された。解除されたことによって、日本人が海外へ行けるようになった。それは当時の世界的に見ていくと、同じ年代に奴隷制度が廃止された。奴隷制度が一番依存していた国はどこだと思う? プランテーションになるような。
北米ですか?アメリカ?綿とかコットン、サトウキビ?
そう、サトウキビ。日本でサトウキビの栽培が盛んになったところは沖縄。だから沖縄が最初の海外移住者の走りで、 10年間で2万人がハワイに行った。で、ブラジルはコーヒー農園で奴隷が使えなくなったから、 じゃあコーヒー農園に来て働いてください、というのがブラジルの要望。で、ちょうど1884年もパラグアイもブラジル、アルゼンチン、ウルグアイを相手にした三国戦争が始まった。それによってパラグアイの財政も疲弊した。さらには国民が67万人いたのが 万人くらいまで減ってしまって、男性はほぼいなくなった。我々が移住する頃は6対1と言われていた。女性と男性が6対1。
最高じゃないですか。
最高なのよ。だからパラグアイのキャッチフレーズとしては、豊かな土地がある。30年間無費用で作れる土地があります。それは日本にとっては物凄い魅力だね。日本はもう費用なしで作れないからね。さらには、男性にとって言うことは、山の木を蹴っ飛ばすとね女の子が落ちていくって言われてたの(笑)しかも美人だからね、パラグアイ人はね。
日本とパラグアイが結んだ移住協定の中には条件としては農業に従事するということがパスポートに書いてあったんだから。私のパスポートが書いてある。ちゃんと条件書いてある。
杉さんってお母さん?
お袋。未成年者は個別にもらえなかったパスポート。 当時は1ドルが126グアラニだったの。(※7500グアラニ=1ドル、 24年10月レート)1ドルが360円だった時に。当時日本円よりパラグアイ通貨の方が3倍強かった。
グアラニの方が強かった?
強かった。
えらい変わりましたね。逆転しましたね。
今は50対1だからね。
これ、写真花嫁みたいな感じ?

そうそう、それがブラジルに来た花嫁さんね。それは6人ぐらいしかいないけど、 俺と同船者は16人いたの。花嫁さんが。 一人だけ一緒にアスンシオンに来てる。
ブラジルに行く人と一緒に来てる?
同じ船に通ってくるけど、お婿さんは前もって先に(南米に)きてるの。お嫁さんが欲しいって言って、 日本の方にはそういった困った人(女性)たちも多いからってことで世話してあげて。だから来るまで会ったことないの。(婿の)写真だけ見てくる。いろんなドラマがあってね。俺の船でも、 サントス(サンパウロ州サントス市)の港に着いて、降りないと言った花嫁さんがいたの。そこで初めて旦那さんと会うわけだから。
結構女性の方は経済的に貧しい人が来てたんですか?
女性の人がって、当時やっぱり日本国民そのまま貧しかったんだ。それで日本にいたって仕事がない。特に女性はなかった。私がまず1950年生まれなんだけど、その時、日本に一千万人の失業者がいたの。人口一億と言われたけども、就業年齢で、18歳から何十歳まで、その間で一千万人だから、 すごい方がパーセントでいて、30%だったかもしれない。
高度経済成長て1955年から72年あたりとかですもんね。
だから、それでもって日本の経済が豊かになったから移住してこなかった。特に工業が著しく進歩していた。 技術的にも経済的にも。それが1950年代の最後。もはや戦後だね。だから1968年には世界第二の経済大国が日本だった。私が出たのは1962年だけど、1964年、2年後には東海道新幹線ができて、東京オリンピックがあって。
じゃあ、移民してきた人は日本がすごいスピードで発展してきたのを見ながらどう思ったんですか?
またまたこっちの田舎のおっさんたちはそういう日本経済の実態ってあんまり知らないからさ。同時にエネルギー革命というような状況が 日本に起きたわけだ。それまで炭鉱とか石炭で走る船や車が いっぱいあって、電力を作るためにも発電所に石炭を使っていた。それが全部石油に変わっていく。ということは石炭を掘っていた地域は全部仕事がなくなってきた。北海道、熊本、福岡、 あとは宮城とか、福島とか。みんな日本でメロンって言うと何のメロン知ってる? メロンって言ったら夕張とか北海道も。それが全く関係ないわけ。炭鉱の夕張は。 炭鉱が一番盛んだ頃は11万人の人口がいたんだけど、炭鉱がなくなって8000人くらいなっちゃった。でも11万人まで膨れ上がった 社会文化というのは全部なくなるわけじゃないから、残ったら全部税金払わなくちゃいけないね。7%とか8%の人口で 補わなくちゃいけない。その時に何かあるかというと一番だった炭鉱ないわけだから。そんな中で考えられたのが地域産業を支えるだけのものを作る。それがメロンだった。夕張市はもう何回も破産してた。夕張メロンを作った人もパラグアイに来てたの。JAICAの専門家で、農業専門家で 教える立場でこっちに来てた。俺と二人が一緒に仕事してた。
つまり、パラグアイでもメロンはやってるんですか?
つつみっていうマークのメロンがすごい有名。その人の名前はつつみさん。その人に教えてもらった。 つつみさんそのものが農大出身でね。そういった 技術の受け入れとしてはもう最適だった。
これ、最近でもすごい来てますよ。

今年に入って (9月の時点で)もう500何人かな。移住資料館ができたのは 03年だからもう21年。 JAICAが最初に 10年間、 農事試験場の空き部屋でスタートして、その頃は(お客さんが)極めて少ない。JAICAの 調査員とかそれくらいのレベル。それから10年間 はお客さんが来なかったんだけど、最近来始めて日本からの観光客だけで 1年で1300人かな。
すごいですね。 2chのひろゆきさんも来たんですか。
ひろゆきも来た。東出も来たよ。うちのペンション泊まったの。ひろゆきを世界に置いてきたって番組があるじゃない。それで一回に来た。エクアドルから入ってきて10万円だけ渡されてペルーに行って、それからパラグアイでうちのペンション泊まったの。俺のお店のソファーでぼーっとしてたら背の高い男が入ってきた。いつものバックパッカー風だった。でもその前に西村ひろゆきっていう名前でペンションに予約が入った。でも例のひろゆきってことは知らないし。うち基本的に予約を取らないようにしてたし 当時いっぱい客が来てあるかないかわからない。そのことを説明したらその後何もなくて 。そしたらいきなりその来た男がマージャンの所に座ったの。で、あなたマージャンできるのか?と聞いたら、僕大好きです。 じゃあ俺がマージャンやろうと言ってら、その男が立ち上がってすみません申し遅れましたが 私、東出と言います。 あれ東出といったら日本に俳優がいるよね?って言ってたら、私がそれですって。なんであんたひげ中顔だらけだからわからなかったよって。そのうちペンションに泊まっている連中大騒ぎになった。で、ひろゆきも来てお二人が泊まって、 他のスタッフもいたけどその時部屋がいっぱいだったので他に泊まっていた。で結果的にひろゆきと麻雀一緒に遊んで 。
麻雀強かったんですか?ひろゆきさんは?
東出は結構打ったね。ひろゆきの方は下手だった。俺後ろで見てやってね。あとはこの移住地もせっかく来たから案内してあげたのさ。若い子たちがもう騒いで騒いで。彼は2chもだし、論客だからね。結構政治家にも切り込んでいくしね。パラグアイにいるからこそ、すごくそういった人たちと出会うチャンスがあったよ。眞子さんもそうだけど。直接ね、ここに来て、案内もしてあげて。私はたまたま、眞子さんのおじいちゃんおばあちゃんのことも知っているから。28周年の記念式典に参加されて、その後日系社会を周ったの、彼女。 なかなかね、皇族周れないのよ。警護が難しいから。パラグアイの場合はねパラグアイ警察。でも、上皇陛下が来たときはすごかった、やっぱり軍隊。
天皇陛下とはどういった言葉を交わされたんですか?
もう彼らはもう象徴的なもんだから、現地の方としてはパラグアイのことを紹介したりとか会話は当然するけども、 会話らしい会話ではない。
日本から行く時には、南アフリカの喜望峰を経由する方法と、太平洋渡るパターンと2つがあったんですか?
パナマ運河って 1952年にできたの。あれはアメリカの権益のためにやったんだよ。国益を追求して。で、コロンビアを2つに割ったのもアメリカ。で、移住は、この南米だけじゃなくて、ドミニカにも来てるから。あと、当然形は違ってもアメリカにはかなりの日系人がいるし。270万とか言われてるからね。それより大きいのはブラジルの日系社会で。
アルゼンチンを周って来るってことはなかったんですか。
それもあったね。パラグアイの一番最初の戦後移住者、1950年に来た人たちは、6家族移住してきて、 3家族はラコルメナっていうところ。3家族はフェデリコ・チャベスといって、戦後一番最初の移住地に入ったの。その人たちが、戦争が終わって2年後だから、通してもらえなかった。アメリカとかの感情的な問題で。パナマ運河もまだなくて通れないから仕方ないから喜望峰のマゼラン海峡を通って南米に到達した。パラグアイの移住航路って、最初は2つしかなかった。いわゆるパナマが運河通った航路と東南アジア。 それにプラスされたのが、少ないけども、 マゼラン海峡を通った。これはね、多分、どこでも聞けないと思う。なぜならばマゼラン通った人に直接聞いたんだ。
パラグアイの移民の研究っていうのはありますかね?
えーとね、まあ、断片的に書いてあるけども、例えば、パラグアイ移住何十周記念史ってあるんだけど、最後にまとめたのが80周年史。もう8年前(2016年発行)だよ。これはアスンシオンの日本人会にいけばある。
私は実は南米移民を読もうと思って来たんですけれども今 16年に遠藤とわきさんという方が南米移民の全体を書いているんですけれども、 やっぱりブラジル、ペルー、それからドミニカの3つなんですね、 焦点を当てて。 パラグアイも一応あるんですけれども、ほんの1行~数行たまに出てくる感じで。
ニュース性がないから。当然、書く人は自分の書いたものが売れるということが一番大事。 多分パラグアイを書いても、 細かく書いてみればいろんなことがあるよ、パラガイの歴史も。 でも日本人移住だけ捉えてみると、 集団移住は日本政府が土地を購入してさせたという意味では、すごい特質あるけれども、それ以上のものはあまりない。話をしているとすごくあるよ。
そうですか。 ほとんど情報がなくて。ペルーに一番入るわけですよ。
そう、ペルーはどうしても太平洋に接しているから、入りやすい。あそこはね、1890年代に入ってるから。ブラジル移民より約30年早いから。
北米移民が難しくなってきて入る。
そう、あそこはペルーはね、大戦でドイツは戦争に負けてそれで一晩の内に、 バチカン市国に入り込んでいたナチスの軍人が3千人くらい船に乗ってペルー出発を決めた。ペルーに着いて、 エスタンシアという地域があるんだけど、そこにその人たちが流れ込んで、当時そこはもう治外法権になっていたみたい。だからそこは工業が盛んでいろんなものができてそこに日本人、沖縄の人たちも入ってきて。ボリビア移民というのはあるんだけど、ボリビア移民の最初の人たちが、ペルー経由でアマゾンの奥地に入った。ボリビアの。 それがボリビアの日系、日本人移民の走りみたい。そこは沖縄の人たち。 青年たちが一攫千金を狙って当時ゴム景気で湧いていたアマゾンの奥地に行った。
一攫千金も叶った人たちもたくさんいるんですか?
当時はね。だってマナウスに行くとオペラハウスがあって全部金箔だもんな。その時かなりお金が動いた。だから、それを狙ってボリビアのアマゾン奥地に入った人たちが沖縄の人たちだった。 その後には沖縄琉球政府そのものが、ボリビアに今現在ある沖縄移住地を作った。
そんなものがあるんですか?
沖縄第1第2第3というのがある。ボリビアのサンタクルスから四十キロくらいのとこ。 それはサンフアン移住地より近い。言葉もやっぱり沖縄の言葉ね。どう現地の言葉に入るのかが。それはやっぱり沖縄という立地的なもので、戦争後はすぐアメリカがあそこを占領した。アメリカの管理下に置かれたということもあって、我々(パラグアイ)と同じ移住者だけど彼らはアメリカのパスポートだからアメリカについても上陸できるわけ。やっぱり当時は、(沖縄が)日本より力があったから。 そこは沖縄県が支援をして。 他の日本人移住地は、日本政府として移住政策だから。
移民にとって、日本政府に対する感情ってどういうものがあるんですかね。
移民社会でよく言われたのは移民は、棄民である、という言葉がよく言われたの。
遠藤さんも南米棄民というタイトルで本を書いています。
でもそれは、私はどうかなと思うのは、決めるのは移民の本人なんですよ。私は必ずその人が言っていることが、正しいとは思わない。私の見方は全然違う。それを、 特に有名なドミニカ。ドミニカは、 本当に棄民になっていた。俺もうなずけるの。 移住して米を生産してお米を農産物として輸出する。だけど現地調査が、ちゃんとやられていなくて、水もなかった。 畑は石だらけだった。 そのことは、よく知っている。 そのことは、 当時は、 棄民と言われたけれども、 現在はドミニカの、元の日本人、 一番良い暮らしをしている。 そこで、 野菜を作って、野菜の生産地としてすごく今、 盛り上がっている。
ドミニカ移民の方は、日本の政府は、 訴えましたよね。
訴えて、 50年ぶりに小泉総理の時に初めて政府の失政だったってことを認めて一戸あたり、 2百何十万円の謝罪をした。 私は、 そのために運動していたヒラカさんという人もパラグアイに来られて話もしたけど、50年間戦って、 日本に何回も行って、50年間で僅か二百何十万だもん。日本政府が失敗するって大変なことなの。間違いなく棄民だったの。 というのは、 当時1千万人の、失業者が日本にいる。 どこで仕事をさせる? できないから、 移住政策となる。そういう見方が間違いなくある。 でも、決めたのは本人だからさ。 私は、自分の経験でいうのは、 やっぱり移住しても、 なかなか、 食えない。 食えない方が 時間が長いわけ。で、 電気もない。 ガスもない。吉郁夫の歌みたいなものだよ。そんな生活があって、 で、 生活も慣れてない。 文化も違う。 いろんなことが違う。 そして、 言葉が分からない。というのは、 日本人はまず移住者発起で自分たちの組織を作る。日本人会とか農協とかを作って、自分たちの移住の世界をしっかりとしていく。 で、 当然、 言葉が分からないから、 その言葉のずれによって、 感情的な問題が発生して、 でパラグアイ人は、農業労働者が多いから、 あのー、単純な、 理解になるわけ。そうすると、すぐ、その感情的な喧嘩になる。日本人はアグレッシブじゃないからパラグアイ人に殺された例てのは結構あったわけ。それはパラグアイ人と日本人の間ね。でも、ブラジルの中では日系人の中で争って1945年から、 46年、47年から900人以上の逮捕者が出ている。日系人の中で起きた勝ち組負け組事件。まあ、そういった悲惨な状況もあったと同時に、 勝ち組が押し寄せたサンパウロのサントスという町は最後に降りる港なんだよね、移住者はね。で、そこで降りて、まあ、ブラジルの各地に入ってくるんだけど、 それまでは、 ブラジル北部のマナウス、 ベレンに降りて、レシフェで降りて、 それから、 サルバドルで降りて、 リオデジャネイロで降り、サントスで降りる。最後はサンタカタリナもあるけど。サントスは当時はコーヒーの輸出港だった。人がたくさん集まって、そこでも落ち着く人たちもいるわけ。で、そこで簡単にできる仕事をやって、 港湾で働く人たちの相手にする仕事を始めて、まあ、 で、そういう形ではサントス港の移民たちは早く定着できた。しかし第二次大戦中にはいきなり強制退去命令が出てサンパウロに収容所も作って、 そこでみんな送り込まれたちゃった。 財産も一切何も持たずに。それは第二次世界大戦中の話だけどね。当然 ブラジル、パラグアイも、アルゼンチンも連合国についているわけ。ただパラグアイの場合は、まだ日本人数が少なかった。で、しかも、 あまり大きな業種じゃない農業開発のために入ってきてるからあまり影響しない。 パラグアイ国民にとって日本人がやったことは、まあ、 日本人は信頼ができる、穏やかである、そういう国民性もあって、地域に溶け込むのが早かった。 で、友達もその後、 早くできたんだと思う。パラグアイは、三国同盟戦争(1864年‐1870年)が終わった時、 20万人しかいないんだから。 それから40、50年後に初めて日本人が来たわけ。貧しいパラグアイ人社会の中に、日本人が来ていろんな作物を新しいものを作って、 収入も増えていく。でも、日本人は 人の社会まで入っていかないし、 そういった意味では、大きな悪い意味の影響はなかった。だから、パラグアイ人も、日本人が入ってきたことによって、受けた悪い影響が少なかった。だから、記事にするのに今はあまり面白くない。
パラグアイの初めの日本人移民は、1936年くらいでしたか?
最初はね。でもその前、10年くらい前に日本人は入っていた。 これはねグレイシー柔術という名前を知っているでしょ?コンデコマ前田光世さん。 前田さんがブラジルに入ってきて柔術の普及(1915年ブラジル到着)をした。そこに手伝いに来た福岡庄太郎さんという人もブラジルに来て、彼は喘息持ちだったんだ。それでブラジルは少し気候が合わないということでアルゼンチンで警察とかに柔術を教えているうちに、やっぱり良くないと。パラグアイの気候の方が合うみたいということで、1920年代にアスンシオンに入ってきた。 それがパラグアイ最初の日本人になった。 その当時は、 集団移民はなかった。だから 福岡さんは柔術家として入ってきた。それで、 偶然知ったのはね、 今から、 40年くらい前かな。息子があアスンシオンで交通事故を起こしてしまって瀕死の状態で病院に送られた。 もう腸も切れててね、 もう危なかったと言われてた。で、その時に薬を買いにアドベンティスタ病院の前の薬局に、入ったのね。そこのパラグアイ人が俺の名前は福岡だ、うちの親父は他の日本人が来る前に来た一番最初の日本人だって言って。その時福岡さんの家族と初めて会った。これは偶然だよね。まあ、そういう歴史があったんだ。これね、アスンシオンの日本人会に福岡さんがアルゼンチから入った話が書いてある本がある。福岡さんは当時警察なんかに柔術教えたの。それから当時は領事館もなく公使しかいなかったし、 日本の領事業務をその人が便宜的にやってたから日本人に頼られてね、何かの問題が起きると、その人に書いてもらう。
彼の柔道、柔術の流れがアスンシオンの警察には、まだあるんですか?
警察にはないけど、まあ、当然、技術としては、 他の人が教えてるものと繋がってきてるよね。でも、もともとの走りは、福岡庄太郎さんという人だったね。でも、その人もパラグアイ人と結婚してるから、もう日系人としては残ってない。
1936年に、農業移民が始めてきたのは、 ブラジルだとか、ペルーで、やっぱり反日感情が強くなったからですか?
まあ、それも当然あると思うし。でもそれはやっぱり、 戦争が終わってから1年か2年くらいだから(ボリビアとのチャコ戦争1932-1938)、 でも、それは日本人が、その地域で働いていたことが大きいから、 だから、当然、ブラジルでもね、日系社会が一番多くなっちゃう。
1936年にパラグアイにきてるとやっぱり、すぐ1940年、太平洋戦争が始まったら、 移民中止されますよね。パラグアイではあんまり戦前に 移民は来てない感じですよね?
ここイグアス居住区は佐渡島と同じくらいの面積がある。そこに、かつて 3人しか大地主がいなくて、 3人との契約で、 土地が買収できた。で、特にこの地域は、 他から人が入らなかったのは、アルゼンチンの1954年の クーデターでパラグアイと国境を接するアルゼンチンのミシオネス州って昔パラグアイだったからさ。そこから逃げた人たちも多くて、 そこからテロが入ってくるんじゃなかろうか、 っていう噂があった。 だから土地を買いやすかったと 。そして日本政府がその土地を買った。で、当然買えば、人を受け入れるためには道を作らなくてはいけないし橋も架けなくちゃいけない。いろんな、基本的インフラを整えるから、土地割りもして資本投資が行われた。その土地割りだけじゃなくて投資した代金を土地の代金にぶっかけて日本に販売するわけ。それは移住させるための政策だから。日本政府が一番最初に、どこに移住地を作ったかというと、この、1954年、55年のラパス。で、ピーランポーが60年。で、フェリーコ・チャベスとラコルメナはパラグアイ政府が設けた入植地であって、フェリーコ・チャベスはウクライナ、ロシア、ドイツ、それからベルギー、チェコソバキア、ブルガリア、ルーマニア そういった国もいっぱい入ってる。だから移民のるつぼな。今はそんな人入らないけど当時とは要するに、東欧の方というと資本主義と社会主義の対立が始まってそうだった。その中で土地を追われた人たちが来たんだ。その後、南米のドイツ系、イタリア系が増えたっていうのは、やっぱりその、三国同盟の第二次世界大戦で負けてしまったからドイツの場合Uボートで逃げてきた。だからナチスのアイヒマンとメンゲレはホエナウというところにメンゲレと、アイヒマンもいた。
アイヒマンは確かアルゼンチンで捕まったんじゃなかったんですか?彼が裁判にかけられてる映像もあるんですけど。
いや、それは表の情報。本当の真実って分からないので、本当のアイヒマンはパラグアイのホエナウで死んでいるという話ね。
じゃあ、影武者が、、、
可能性ある。
じゃあこれもちょっと聞きたいんですけど。アスンシオンのパルマデルソルのホテルの地下にアドルフ・ヒトラーの墓があるっていう本が出てますけど、あれはどうなんですか?
まあ、そういうものもヒトラーは影武者がいっぱいいたみたいだし。戦争終わって、かなり長いこと生きてた、 っていう話もあるけどね。とにかく、パラグアイもアゼンチンもドイツを受け入れたということは間違いない。あるいは、ペルーもね。私はね、自分がJAICAの職員になった時パラグアイにはがまだ写真の現像所がなくて、アメリカに送ってたこともあったの。で、一回ホエナウっていう町に現像所があって、行ったんですよ。そこはドイツ系の人だったから、ここはね、オデッサっていう組織がこの地域を支援してるって聞いたけどそれは本当か?って聞いてみた。するとなんでそんなこと知ってるんだ?!と声色が変わったの。そんな小さな機関じゃないよ。ここにはもっと大きな組織が付いてるんだ。ドイツ人も知らないけど俺は元ゲシュタポだから知っている、と彼は言って帽子とか紋章を見してくれた。彼はパラグアイにはナチスの支援者が2人しかいない、彼ともう一人はペドロフアンカバジェロにいるんだ、と言った。これには本当にびっくりしたよ。
インタビュー日:2024年9月5日
場所:イグアス移住資料館
語り部:園田八郎さん
インタビューさせていただいたら5時間も園田さんに語っていただけました!本当にありがとうございました。凄いエネルギーの方です。実はまだまだ未収録のお話がありますので反響をいただけましたらまた追加掲載いたします。

移住資料館の場所です↓クリックでGoogleMapに飛びます。
資料館に誰もいない場合は園田さんが経営される宿泊所ペンション園田に行って移住資料館のご案内が可能か問い合わせしてみてください↓(クリックでGoogle Mapへ)
イグアス居住区への行き方:
アスンシオンバスターミナルから→シウダッデルエステ行きのバスに搭乗する時「41㎞のイグアス居住区で降りたい=Puede bajarme en la Colonia Yguazu, en el kilometro 41(cualenta y uno) de Ciudad del este por favor」とバス添乗員の方に伝えると丁度この地図の辺りで降ろしてくれます。
シウダッデルエステバスターミナルから→アスンシオン方面行きのバスなら何でも良いので乗って、添乗員に「イグアス居住区で降ろしてください=Puede bajarme en la Colonia Yguazu,en el kilo metro 41 por favor」とお伝えください。
※迷った方は+595985475643相原宛にWhatsapp連絡いただけましたら対応いたします※
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